宇城市議会 2019-12-05 12月05日-02号
「弓せんの道進むをもてしょうとす」これは、日露戦争の英雄海軍大将東郷平八郎の揮ごうによるものです。また、台座には肥後出身の首相清浦奎吾の撰と書による碑文があります。これも小川町北海東の平原公園となっています。それから、お隣の豊野町には浄水寺、これまた貴重な文化財で観光資源として価値あるものです。このように本市には、西の海と東の山に世界的遺産級の宝があります。
「弓せんの道進むをもてしょうとす」これは、日露戦争の英雄海軍大将東郷平八郎の揮ごうによるものです。また、台座には肥後出身の首相清浦奎吾の撰と書による碑文があります。これも小川町北海東の平原公園となっています。それから、お隣の豊野町には浄水寺、これまた貴重な文化財で観光資源として価値あるものです。このように本市には、西の海と東の山に世界的遺産級の宝があります。
日本は明治から続けられた日清戦争,日露戦争,中国大陸での戦争,さらに太平洋戦争の歴史と悲惨な戦場等を見せられたことは重要と考えております。 そこで次の質問に移りたいと思います。次の答弁は教育長でありますので,文教厚生常任委員会で聞けないのでここでお尋ねをします。宇土市内の小中学校は,長崎と広島に修学旅行が実施されていると聞きます。
この慰霊祭ですけれども、慰霊祭は太平洋戦争以前の日清・日露戦争、満州事変でお亡くなりになった方も含まれておられるのか。また、現在、市民会館の西側に当時の市長さん名で平和の碑が建立されておりますけども、慰霊祭に対する市自体のかかわりは具体的にどうなっているのか伺います。 ○副議長(江田計司君) 健康福祉部長 村上隆之君。
日清・日露戦争でも戦勝国となりまして,極東の小さな島国という世界の評価が一変しまして,国際的にも非常に注意が必要な新興国というイメージに変わってきたのかなという印象です。 当時の日本は,急激な経済成長をしていますが,島国ということもありまして,天然資源に乏しく国益を守るために,資源を求めて海外進出をはじめたと。
この時期に何で宗方小太郎かと言いますと,現在熊本市は日露戦争の勝利へ向けた諜報活動で活躍した諜報将校石光真清を大きく取り上げはじめました。この石光真清の先輩格が日清戦争で活躍した宗方小太郎です。もう世に出してよい時期ではないかと考えております。宗方小太郎は石光真清と違い民間人で,幕末の教育を受けた志士の志を持ち,大陸への列強の圧力に対する反対運動の活動家として熊本から渡った大陸浪人の一人です。
明治時代の富国強兵政策は、日清戦争、日露戦争を起こし、第2次世界大戦へと進み、アジアの人々に大変な犠牲を与え、日本も壊滅的な被害を受けた中で終結をしました。大きな犠牲と痛みから大反省をして、平和憲法を制定、戦後復興に取り組み、経済振興に取り組んだ結果、世界第2の経済大国にまで上り詰めました。
しかしこの方は、日本の紅茶の偉人の一人とみなされておりまして、どこで読んだかちょっと定かではないんですけれども、日露戦争がなかったら、イギリスのリプトンに対抗できるぐらいの紅茶メーカーというか卸というか、そこまで達成できたんではないかといわれている方でございます。
山本五十六のライバルであり東郷平八郎を深く尊敬していた、アメリカ太平洋艦隊司令長官、チェスター・ウイリアム・ニミッツ提督は、日本の敗戦後、ソ連が横須賀にあった日露戦争戦勝記念戦艦「三笠」を、日本海戦に大敗した腹いせに、スクラップにしてしまえと主張したのを、日本人の誇りをこれ以上踏みにじってはならぬと、これを断固として退けました。
大東亜戦争、この15年に渡る戦争の始まりが、昭和6年9月の満州事変とするならば、その立役者は日露戦争時の児玉源太郎の再来、作戦の天才家、関東軍高級参謀石原莞爾中佐であります。当時、満州は各民族が入り乱れ治安・秩序が悪く、軍閥が闊歩する無法地帯でありました。
また、歴史においては自国の歴史の負の部分をことさら強調する自虐主観であり、日本の勤勉の象徴であり、道徳思想を唱えた二宮尊徳、江戸城無血開城の立役者の一人、勝海舟、明治維新の父、高杉晋作、江戸時代の名君で財政改革を成し遂げた上杉鷹山、さらには日露戦争の第3軍司令官、乃木希典を教えておりません。
ところはアメリカは日露戦争のころ、教育勅語の精神を絶賛していたと言われています。それはともかく、その結果、我が国の倫理道徳観は著しく低下し、極端な個人主義が横行、教育現場、地域社会、家庭においても深刻な問題を多発しています。
日清、日露戦争の確たる勝利は日本がまだ工業国ではなく、農業国家であったからである。兵士の大半は農村出身であり、農業国家の強さが奇跡をもたらしたと言える。また国家の経営のことを思うにつけ、国の農業が貧しければ国の暮らしはよくならない。逆に農業農村が生き生きとしている国は経済も文化も国民生活も活力がある。
ドラマの内容としましては、明治時代の日露戦争で日本国家が総力を挙げて戦った、その時代を生きた明治の青春群像を壮大なスケールで人間ドラマを描写し、さらに、この小説の底流にある反戦という思想を大切に描いたものであります。 昨年の3月に三角西港でテスト撮影がありましたが、その結果、軍艦が出向するシーン等を西港で撮影することが決定をされました。
古い話ですが、乃木大将から一時指揮権を預かり203高地を突破、旅順を陥落させ日露戦争を辛くも勝利に導いた満州軍総参謀長児玉源太郎大将をほうふつとさせ、その知恵と才覚、最後の切り札としての期待感であります。そうか、俺は児玉源太郎なのかという自覚を持ち、期待と失望の落差は大きいがエースの勇ちゃんとして政治生命をかけて頑張ってください。
例を挙げてみますと、日清・日露戦争以降の日本の戦争を美化・正当化したり、アジア太平洋戦争を「大東亜戦争」と読んで、それが侵略戦争だったことを認めず、日本の防衛戦争、アジアの解放に役立った戦争として美化し肯定をしております。あるいはまた韓国併合、植民地支配への反省はなく、むしろ正当化する内容は変わりありません。また日本軍、慰安婦の事実を無視し、南京大虐殺についても否定論の立場であります。
近代日本がスタートした明治時代からの歴史を振り返ってみますと、明治元年(1868年)から太平洋戦争が終結した1945年(昭和20年)までの77年間にわたり、当時の政府は富国強兵策をとり、列強国に負けじとばかりに、明治27年の日清戦争を皮切りに、明治37年日露戦争、昭和12年日中戦争、昭和16年太平洋戦争の記録で明らかのように、日本は77年間のうちに約20年に1回、大きな戦争を経験したことになります。
近代日本がスタートした明治時代からの歴史を振り返ってみますと、明治元年(1868年)から太平洋戦争が終結した1945年(昭和20年)までの77年間にわたり、当時の政府は富国強兵策をとり、列強国に負けじとばかりに、明治27年の日清戦争を皮切りに、明治37年日露戦争、昭和12年日中戦争、昭和16年太平洋戦争の記録で明らかのように、日本は77年間のうちに約20年に1回、大きな戦争を経験したことになります。
そのおかげで、二十世紀に勃発をいたします日露戦争を大変有利なうちに講和条約を締結することができたと言われております。 古語に「事の成るは、成る日に成るにあらず、必ず由って来るところがある。」ただ偶然にその時なったのではない。過去においてそれぞれ努力をされた結果が今日生まれてきておるのであるということであろうかと思います。
そのおかげで、二十世紀に勃発をいたします日露戦争を大変有利なうちに講和条約を締結することができたと言われております。 古語に「事の成るは、成る日に成るにあらず、必ず由って来るところがある。」ただ偶然にその時なったのではない。過去においてそれぞれ努力をされた結果が今日生まれてきておるのであるということであろうかと思います。
そのときにまず行きましたのが、道順の関係でありましたけれども、参りましたのは広瀬神社、あの旅順港の閉塞に当たって、日露戦争のまさに焦土激戦のところで、あそこで旅順港を閉塞したためにあの日露戦争は勝ったのではないか、二百三高地が落ちたのではないかとそのように思います。その広瀬中佐の神社にお参りをいたしました。 それから宇佐神宮に参りました。